今日という一日
私は朝一番に日めくりカレンダーを見る。
要点は先ず六曜の吉凶から始まり 順次に
十二直さらには二十八宿まで進みその上で
一日の方向を考える参考とする。
どうしてこうまで拘るのかをふりかえるとき、
どうも毎日の生活には考えつかない理不尽な
出来事があるようで深追いしたくなるのである。
このような時、昨夜の夢を思い出してみるもの
のどうしても部分的にしか思い出せずしかも時折
つじつまの合わない夢が殆どで家族に話すにも
戸惑う不完全なものである。夢の映像を無理に も追にも追いかけ、どうしも追いかけ、どうして、このようなことが出て
来るのか皆目見当もつかずに、しかし・・・と
考え込むがなにも答えらしきものは出てこない。
このような場合、私は ”たかが・・されど・・”
方式を用いる。この自分なりの納得に、頭では
答のでないことと見た夢に繋がるものはないもの
かと、たかが一編の夢でも、されど現実と関わる
ものはないだろうかと追つてみるときがある。
”虫の知らせ”とかの言葉もあり事実は奇なりである。
いくら文明科学の発展した現時代でも非科学的など
と一笑できない。多くの人々が見落としていること
と思うと、いまそのことを拾い上げなければならな
いことかも知れない。
前え前えと追うことのみでなく振り返り拾い上げる
ことも大事のことと考えるのは間違いなのであろうか。